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2009年10月

2009年10月31日 (土)

ブルータスの「美しい日本語」

ブルータス(11/1号)読みました。

特集がズバリ表紙の「美しい言葉」。白地に墨痕鮮やかな毛筆で、奇をてらわない正統派な草書体です。
これは店頭でもひじょうに目を引きました。
いい字だな(偉そうですね、すみません。ただ、自分が見て好ましい字、という意味です)、だれが書いたんだろう。
 「揮毫:石飛博光」
なるほど、サッポロビールのラベルやNHKなどで大活躍されているかたなのですね。

話は逸れますが、短大時代、書道の先生に、文字を「かたち」として捉えることを教えられました。
お手本は、文字そのものではなく「余白」もしっかり見なさい。「黒」と「白」の「さかいめ」が肝心なのだ、と。
半紙に定規で線を引くことから始まった、小筆しか使わない「臨書」に、それまでの「お習字」への認識が一変し、なかなか貴重な経験だったと思っています。

ところで、ブルータスはいつもわりとシンプルでストレートな表紙ですが、今回は究極と言ってもいいでしょう。
タイトルロゴが黒でなく、グリーンというのも、墨との重複を避け、赤では激しすぎ、青だと重くなりそうなところをさわやかにまとめた感じです。

特集の内容は、、、
私にはその存在意義がまだよくわからない「twitter」発のつぶやきから、涙なしには読めない辞世・哀悼の言葉集。ことばとしての歌詞。文豪の手紙。自由律俳句などなど。
古今東西、多彩な言葉の収集標本といった印象。
「使いたい美しい言葉集」というとじこみ付録に、読んだことのあるフレーズを見つけてうれしくなったり。
「どうかこの泥棒めに、盗まれてやって下さい」とか(わかる人には、わかりますね!)

なかでもわたしが面白いと思った、永原康史氏による日本語デザイン歴史論を紹介しましょう。(引用ではありません)

日本語デザインの歴史は世界でも独特です。
もともと文字をもたなかった日本語は、大陸の影響により、公式文書で採用された漢文と話し言葉の倭文の二刀流時代を経て、漢字とひらがなとが混在する表記へと発展してきました。
一文字独立の漢字と、続け書きが基本のひらがな。これを同時に成立させるために開発されたのが、ひらがな2文字や3文字をひとつの活字に連刻する「連綿体活字」です。

連綿体活字文化の頂点として挙げられているのが、桃山~江戸初期の富裕層の間で流行したという「謡」(うたい。カラオケみたいなものか)の歌詞本というのがまた面白い。しかも、今に伝わる豪華版の「嵯峨本」を作ったのは、「琳派の祖」と言われる本阿弥光悦ですって。

しかしこの後、木活字による漢字仮名交じり出版は一時期途絶えてしまいます。
なぜって江戸時代にぐんと上がった識字率。(たぶん寺子屋のおかげだと思いますが、)これによって印刷物の読者層は爆発的に広がり、出版が庶民向けの商売として成立するようになると、売れたものは当然、もっと刷ろうってことになりますね。
一度組んだ活字をばらして使いまわしてると、あれもう一度刷ってよって時に困るから、一枚の版木に完成した文章を彫る「整版」が主流になっていったのだそうです。

この整版化には、娯楽性が強まる中での幕府による風俗管理という面も、大きく関与していたらしいです。
へええ、ほおお。
そういえば版元と幕府のいたちごっこは、歌麿に関心を持った時にいろいろ読んだなぁ。
検閲して、版木ごとにお墨付きを与えるわけですね。活字組版だと、あとで改変できちゃう。

この後、明治に入るとひらがなが楷書化されて、現在のような、かなも一字分ずつの混合組版が出来上がったそうですが、永原氏は、千年にわたって日本語表現の基本であった連綿ひらがなの、活字文化への再登場の可能性も示唆しています。

こういうことを考えつくのも、歴史をちゃんと学ぶからこそであって、だから歴史は面白いなぁと思います。

興味深かった記事がもうひとつ。
橋本治氏の美文論です。

いまは簡単でわかりやすい文章が奨励されるけれど、そもそも美しい文章というものは、言葉を荘厳することにはじまるのであって、装飾は悪ではない。みんなが同じようなうすっぺらな文章を書くほうが気持ち悪い。というのが橋本さんの主張です。
「大使館での舞踏会をご近所のホームパーティーにしてしまったら、ドレスを着て行く場所がなくなる」という比喩が、橋本さんらしく、言い得て妙。
はじめから平明な文章を目指すのではなく、一度美文をマスターすることによって文章のコントロール能力が身につく、というわけです。

この記事には「橋本治と選ぶ美文家20人」というおまけがついていて、二葉亭四迷が「I love you」を「死んでもいいわ」と訳したエピソードなども。。。

うわぁ。また、読みたい本がどどんと増えてしまいました。

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2009年10月 7日 (水)

続橋先生

思いがけないところで短大の恩師に再会した。
といっても相手は故人であり、ネット上でお名前を発見したにすぎないのだが。
「文学散歩」というキーワードでうろついていて見つけた下記の記事である。

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http://www.mars.dti.ne.jp/~ginka/sanpo/SanpoYORI01.html

宮沢賢治の本郷の散歩ガイドを書くにあたって、持っている資料を引っ張り出してみていたら、以下のような一文が載っていた。

 「農学校時代教論時代の創作とみられる『茨海小学校』のなかに、〈幼年画報にゐたたけしといふ人〉とある。『幼年画報』(1906~1936、博文館)に〈画家のたけしさん〉が〈狐小学校のスケッチ〉をかいていたかどうか、未調査である。だが、このたけしさんは、絵雑誌「コドモノクニ」(1922.1~1944.3)にかかわりの深い武井武雄のことをふまえているとおもわれる。……」(「賢治童話と先行文学」続橋達雄、『国文学 解釈と鑑賞』昭和59年11月号より)

 宮沢賢治と武井武雄の間にそんな接点があったなんて……。しかし、大正児童文学研究に明るい続橋先生がそうおっしゃっているのである。
また、1923(大正12)年1月に弟・清六を訪ねた賢治がトランクに詰めた童話の原稿を婦人画報と『コドモノクニ』を発行している東京社へ持参するように言った、と『校本全集』に記されていることも、賢治が武井武雄の絵に心魅かれて注目していたということの裏付けになるのではないかと、続橋氏は指摘していた。
 続橋氏はこの記事を書いた後もこの件を調べておられたようだが、平成8年11月号の『国文学 解釈と鑑賞』の記事「茨海小学校」では、幼年画報に狐小学校のようなスケッチがあったかどうか「今のわたしには不明」で、狐の名前に〈武田〉〈武村〉と「武」の字が使われているため〈たけしさん〉は『注文の多い料理店』の装幀挿画をした菊地武雄あるいは武井武雄を連想させる、というだけにとどまっている。

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この、続橋氏というのが、わが恩師。
いつもニコニコ優しげな笑顔の、いかにも児童文学者らしい人物だった。

宮沢賢治の研究が専門で、わたしが履修していた講義でも、先生みずからそのおっとりした口調で、ときにユーモラスに、じつに表情豊かに「読み聞かせ」をしてくださるので、学生たちはまるで絵本を読んでもらっている子供のように、いつの間にかすやすやと眠ってしまうのだ。それはほんとうに心地よい時間で、わたしは先生の講義が大好きだった。

先生が顧問を務める文芸部の学生(わたしもその一人)が、部誌の編集にかこつけて研究室までおしかけても、面倒がらずに寄稿までしてくださった。
そのときいただいた原稿は、花巻の賢治記念館を訪れた折のことを書かれたもので、印刷屋さんから戻ってきたあと、記念にとわたしがいただき、いまでも大事にとってある。

このサイトは「銀貨社」という児童文学の版元が運営しているらしい。
≪大正児童文学研究に明るい続橋先生≫などという看板は、学生当時は気にも留めなかった。田舎の大学の先生が、その道ではひとかどの人物だったのだと、いまさら気付く。
「おはなし」の間に挟まれていたはずの逸話や考察は、はずかしながらまったく覚えていない。
なにかその片鱗でも残っていないかと、当時のテキストを引っ張り出してみたが、
書き込まれているのは日付と傍線、そして、誤植を見つけて得意げに入れた赤字くらいのものだった。

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